Daisy

 窓の向こう、緑を透かした先に、知らない人がいた。溢れる光を浴びて、その人は大きな鋏を動かしている。器用に梯子の上に座った彼が両手で持った鋏を動かすと、枝葉がポトリと落ちる。眩しいのか目を細めているせいで、怒っているように見える。ポトリ、と真緑が落ちる。地面にポトリ、ポトリ、と欠片が転がっていく。
「あれは誰?」
「新しい庭師でございます」
 すらすらと答えたジーナを振り返る。
「お母様が、新しく人を呼んだの?」
「人ではございません」
 私は目を瞬かせる。ジーナは窓の外を見つめている。真っ白な光が、菫色の瞳に差し込む。
「人形です」
「そう」
 どちらにしても、珍しい。お母様が、お屋敷に新しい誰かを呼ぶなんて。もう、減っていくばかりだと思っていた。
「じゃあ、ジーナと同じなのね」
「左様でございます」
 ジーナは私の背に手を当てる。柔らかく押されて、私は窓から離れる。
「さあ、お召し物を替えましょう。奥様がお待ちですよ」
 ジーナはカーテンを閉める。庭師の姿は消えてしまう。彼は一度も、こちらを見なかった。


 薔薇園はお母様が作らせたものだ。でも、お母様がここに来ているのを見たことはない。花盛りの時期でも、お母様は薔薇を気にかけない。薔薇たちが寂しくないのか、私は心配だ。せっかく、とても綺麗に咲くのに。
「ねえ」
 薔薇に水をあげている後ろ姿を見つけて、私は呼んだ。手を止めて、庭師は振り返った。首が痛くなるほど背が高かった。綺麗な金色の瞳が眼窩に嵌っている。
「あなた、名前は何ていうの」
「キリルと申します」
「キリル」
 キリルはじっと私を見下ろした。自分の名前が、何か大切な呪文だったのだろうかと不思議そうにしている。私は微笑んでから、薔薇の傍にしゃがんだ。土のにおいがする。
「キリルは、どこから来たの?」
「外からです」
「どんなところ?」
 立ったままのキリルの顔を見るのは、大変だった。お日さまが眩しい。キリルはそれに気づいたのか、私の隣に膝をついた。
「何もない所です」
「そうなの? ここよりも?」
「ここには何でもありますでしょう」
「そんなことないわ。私が見たことのないものを、あなたは見たことがあるはずだもの」
 キリルは口を噤んだ。真っ白かっただろうシャツは土に汚れている。
「ねえ、外の世界はどんなふうなの」
「何もありませんよ」
「どんなふうに何も無いの?」
「土と、水と、風だけしかありません」
「そう。見てみたいわ」
 私は顔を上げる。お庭の向こうには白い壁が立ちはだかっている。決して出てはいけないとお母様は言う。だから一度も、外に連れて行ってはくれない。その向こうは危ないから、と。それならせめて、どんな場所か知りたいと言ったら、お母様は駄目だと言った。「そんなこと、知らなくたって生きていけるのよ」と。
「でも、それだとつまらないわ」
「知ったところでつまらないですよ」
「じゃあ、つまらないことを確かめさせて」
 キリルは眉を寄せた。キリルが困っている。私は「ごめんなさい」と言った。
「お母様に叱られるのはあなただものね」
「いいえ――」
「またね、キリル」
 私は立ち上がった。今度はキリルの方が、私を見上げる。やっぱり不思議そうな顔で、キリルは私を見つめていた。


 夕食の席で、お母様は私に言った。
「あまり人形と親しくするものではありませんよ」
「どうしてですか」
「あの人形は、外から来たからです」
 キリルのことを、お母様は名前で呼ばなかった。お母様は、キリルのことが嫌いなのだ。
「でも、キリルはお母様が連れてきたのでしょう」
「庭の手入れをさせるためです。あなたの相手をするためではありません」
 お母様はお水を飲んだ。アンナが空になったグラスに水を注ぐ。私はアスパラガスを飲み込んだ。
「お母様は、人形がお嫌いですか」
 アンナが、悲しそうに私を見た。私は、アンナのこともジーナのことも好きだ。
「人形が嫌いなのではありません」
 お母様は口元をナプキンで拭う。
「人形に入れ込むのは醜いと思っているだけです」
 私はフォークを置いた。ジーナが食器を下げる。私はお父様のことを思い出していた。
 お父様は、生きている頃も夕食の席にやって来ることはほとんどなかった。いつもお部屋に籠って、お仕事ばかりしていた。私は、お父様の部屋を覗くのが好きだった。そこでは、世界で一番綺麗なものが作られていると知っていたからだ。お父様は、私がドアを開けても怒らなかった。
「おいで」
 お父様はそう言ったけれど、私は部屋には入らなかった。お母様に叱られるからだ。一等好きなことは、一等叱られることだった。お母様は、お父様の仕事の邪魔をしてはいけないと、いつも私に言い聞かせた。私はドアのところから、お父様の背中を見つめるだけだった。お父様は私が入ってこないのを見ると、柔らかく微笑んでまたお仕事に戻っていった。そのまましばらく眺めると、お母様に見つかる前にドアを閉めた。お父様の仕事を、私は一度も見ることはなかった。
 お父様の部屋に入るようになったのは、お父様が亡くなってからだ。お母様は、もう私を叱らなかったけれど、あまり賛成してくれていないのは分かっていた。だから私は、今でもこっそり入っている。お父様の部屋には、たくさんの腕や脚や胴が転がっている。戸棚の中には、布を被せられた首がきちんと並んでいた。その下の引き出しを開ければ、小さな箱がいくつも収まっている。開けると、青や赤や銀や黒の瞳が、一対ずつ入っている。
 お父様は、人形を作る人だった。お屋敷にいる人形も、ほとんどお父様が作った物だ。
 キリルを作ったのが誰なのか、私は知らない。
 お母様が席を立った。まだ料理は残っているのに。呼び止める間も無く、お母様は出ていってしまった。
 私は一人で、夕食を最後まで食べ終えた。


 私はお母様の言いつけを破った。キリルのところに何度も行った。キリルは私を追い払わない。決してキリルからは話しかけないけれど、私の言葉を蔑ろにはしなかった。
「キリルは、どうしてここに来たの?」
「奥様に買われたからです」
「その前はどこにいたの?」
「店です」
「みせ?」
 キリルが手を止めた。土を掘り返した手は、黒く汚れている。キリルは私を振り返って「何でもありません」と言った。外のことを、キリルは教えてくれない。
「外には、土と水と風の他にも、あったのね」
「いいえ、いいえ」
「キリルは嘘が下手だわ」
「何もありません。お嬢様のためになるような物は、何も」
「そう。じゃあ信じないでおくわ。あなたの嘘だもの」
 キリルは唇を噛んで、花の苗を植えた。何という名前の花かは知らない。咲いた後で、キリルに教えてもらうつもりだった。
「キリルは、お花が好き?」
「特別好きではありません」
「そう。私もよ」
 キリルは目を瞬かせた。金色が見え隠れする。私は土を撫でた。ひんやりとしていて気持ちがいい。
「だって、お花は喋らないでしょう」
 キリルは首を傾げた。
「私ね、自分でお花を育てたことがあるの。お庭の花を切って、花瓶に生けたの。でも、あっという間に枯れてしまったわ」
 毎日水を替え、世話をしていたつもりだったのに、あっさりと腐り落ちてしまった。私の何がいけなかったのか、誰も教えてくれなかった。枯れた花を、私はお屋敷の裏庭に捨てた。
「お花は、何が欲しいのか教えてくれなかったのだもの」
 キリルは、また土を掘った。必要な深さを、キリルはちゃんと知っている。
「キリルは、お花の声が聞こえるのね」
「いいえ」
「でも、庭師なんでしょう」
「分かることと話せることは違います」
 キリルは丁寧に、苗を植える。そっと穴に入れて土をかぶせていく。私は土を手にとる。さらさらと地面に落としては、もう一度掬い上げる。
「汚れますよ」
「いいの」
 心配そうなキリルに、私は首を横に振る。
「洗えば綺麗になるもの」
 キリルは何か言いかけて、口を閉ざした。私はまた土を撫でる。爪の間に土が入り込む。土の上に手の跡がつく。私は目を閉じる。隣では、キリルが花を植えている。


 お屋敷の裏には、雛菊が一面に咲いている。お屋敷の影が落ちる、寂しくてひんやりした場所だった。雛菊たちの間には、ぽつりぽつりと石が置かれている。ここの手入れは、誰もしない。キリルも、その前の庭師も、ジーナもアンナも勿論お母様も、雛菊を切り取ったり、石を動かしたり、新しい花を植えたり、土を加えたりはしなかった。
 でも、ここの土が掘り返されているところは、見たことがある。お父様が亡くなった日だ。
 お父様は、ある日人形を作らなくなった。お屋敷にいる人形たちは、いろんな人たちに引き取られていった。いつもなら、その分新しい人形を作るのに、お父様はぱたりとやめてしまった。人形は、減っていくばかりだった。その頃のお父様は、部屋から出てよくお庭を散歩していた。私は、お父様の後ろをついて歩いた。
「もう人形は作らないのですか」
「さあ……」
 私が尋ねると、お父様は自分でも分からない、という顔をした。
「作るかもしれないけれど、作らないかもしれないね」
「どうして、作るのをやめてしまったの?」
「もう、必要なくなったからだよ」
「どうしてですか」
 お父様は立ち止まった。ミモザの木の前だった。綺麗な黄色を背負って、お父様は柔らかく微笑んだ。優しいのに、痛そうだった。私は悲しくなった。お父様は何も言わないで、私の頭を撫でた。大きくて乾いた手だった。人形を作り上げる繊細さを思った。私は、もうお父様に尋ねなかった。
 それからしばらくして、お父様がまた部屋に籠るようになった。人形を作り始めたのだ。私は、お父様の人形がまた見られるのが楽しみだった。でも、お母様は苦しそうだった。よく、窓の外からお庭を眺めては、怖い顔をしていた。きっと本当は、お母様泣いていた。それに気づいたのは、ずっと後のことだ。
 季節が変わる頃、お父様が部屋から出てきた。
「できたよ」
 部屋を覗こうとしていた私に、お父様は疲れた顔で言った。私は人形を見たかったけれど、お父様はドアを閉めてしまった。お父様は、私の肩にそっと触れた。
「さあ、いい子で待っておいで。ちゃんと見せてあげるからね」
 私は頷いて、お母様のところへ行った。お父様が出てきたことを、知らせなくてはいけないと思った。お母様の手を引いてお父様の部屋に向かったら、その前の廊下でお父様が倒れていた。お父様は、少しも動かなかった。人が死ぬのを見たのは、それが初めてだった。
 お父様が最後に作った人形を、私は見られなかった。お母様は人形を白い箱に入れて、外へ連れて行ってしまった。
 雨が降っていた。音のしない、細く冷たい雨だった。黒い服を着た人形たちが、白い箱を担いでお庭を横切って、壁の向こうへ持って行ってしまった。私はそれを見送った。私の肩に置かれたお母様の手は、細くて力強くて痛かった。
 お父様の身体は、雛菊の畑の下に埋められた。私はお庭の花を、両腕で抱えられるだけ摘んできて、全部お父様の上に降らせた。人形たちが、お父様の上に土をかぶせた。ざくり、ざくり、と土を掬っては穴に落としていく。お父様のお顔が、お花に埋もれた身体が、黒い土で見えなくなっていく。
 ざくり、ざくり、と土を掬う音が、今でも耳に残っている。
 お父様の作った人形がどこへ行ってしまったのか、私は知らない。


 お母様は毎年、写真師を呼んで私と写真を撮った。幼い頃はお父様も一緒だったけれど、いつの間にか二人になっていた。お父様が亡くなってからは、本当に二人だ。
 椅子に座った私の肩に、お母様は手を置く。着飾った私は、写真機に向かって微笑んだ。写真師の明るい声が響く。眩い光が閃いて、私は目を閉じる。
「大きくなりましたね」
 今まで撮った写真を見返して、お母様は優しく目を細めた。写真の中の私は、髪の長さも頬の膨らみ方も衣装も笑い方も全部違う。お屋敷には人形ばかりだったから、私は時々、自分が人間だということを忘れてしまう。私も、ずっと昔からこの姿なのではないかと、思ってしまう。でも、写真の中の私は、きちんと時を刻んでいる。
 私は、人間だ。
「また来年も撮りましょうね」
 お母様は柔らかい顔で言った。
「来年も?」
「ええ。その次の年も、その次も、ずっと、ずっと」
 私はどんなふうに変わっていくの、と写真の中の私に尋ねる。そんなの私には分からないわ、と答えが返ってくる。写真の中、お母様も変わっている。一人で写真機の前に立つのが、私は怖くてたまらない。
「ずっとって、どれくらい先なのでしょう」
「ずっとですよ。この先、いつまでも」
「本当に?」
「本当です」
 お母様は綺麗に微笑む。私は、このお顔が好きだ。
 お母様は嘘を吐くのが上手だ。キリルとは、違う。だから私は、安心している。


 キリルがお庭にいなかった。しばらく探していると、道具をたくさん持って歩いているのを見つけた。バケツとモップと布切れとブラシと手袋とはたきと箒とランタンを一度に持って、キリルは花たちから離れていく。
「キリル」
 キリルは私を見つけて、首を傾げた。
「どこへいくの?」
「鐘楼です」
 キリルは箒の先で背の高い塔を指した。天辺には鐘が下がっている。生まれてから一度も、その音を聞いたことはない。それに、一度も掃除をしているところを見たことがない。
「お母様に言いつけられたの?」
「いいえ」
「でも、掃除をするの?」
「はい」
 私はキリルの手からバケツを攫った。
「じゃあ、私も手伝うわ」
「いけません」
「どうして」
「危ないですよ」
「キリルがいるのに?」
「ええ。いけません」
 キリルは、怒った顔をしている。怖かったけれど、私は知らないふりをした。
「だって、私、あそこに上ったことがないの」
「危ないからですよ」
「ねえ、きっと、これを逃したら一生上らないままだわ」
「それでよろしいのです」
「お願い、キリル。ほんのちょっと、上ってみたいの」
「いけません」
「外が見えるかもしれないでしょう」
「いけません――」
 私は驚いて、バケツを取り落とした。キリルが、聞いたこともない大きな声を出したからだ。ガラン、と地面にバケツが転がる。キリルはハッとして、バケツを拾い上げた。
「申し訳ありません」
「じゃあ、連れて行って」
 キリルは顔を歪めた。怒っているし、困っているし、哀しんでいた。キリルはもう一度、「いけません」と言って、私を置いて歩いていった。でも、私は彼の後を追いかけた。
 鐘楼の扉には、しっかりと鍵が掛かっていた。キリルはポケットから鍵束を取り出して、鍵を開けた。重たい扉を、キリルはゆっくりと開ける。私がすぐに飛び込んでも、キリルはもう何も言わなかった。
「暗いでしょう」
 キリルがランタンを点けてくれた。扉が大きな音を立てて閉まる。キリルは暗いと言ったけれど、思ったよりもずっと明るい。見上げれば、私の身体が収まってしまいそうな鐘がぶら下がっている。鐘の周りの大きなアーチから、外の光が差し込んでいた。
「行きましょう」
 キリルの声に、私は見上げるのをやめた。キリルは、階段に足をかけていた。私を一番上まで連れて行ってくれるのだ。そうしないと、私は帰らないつもりだった。キリルは、もう私のことをよく知っている。
 私はキリルの後ろに付いて階段を上った。壁に沿って、ぐるぐると階段はまあるく這っている。石の階段は丈夫で、落ちそうになかったのでほっとした。
「キリルは、あそこから何が見えるか知っているでしょう」
「いいえ。知りません」
「どうしてそんなことを言うの」
「知りません。あなたの目に映るものを、私は永遠に知りません」
「哀しいことを言わないで」
「本当のことです」
「キリル」
 私は座り込んだ。
「どうしました」
 キリルは、ちゃんと戻ってきてくれる。私はそれが嬉しくて、寂しかった。
「疲れたわ」
「お連れしましょう」
 キリルは、私を抱き上げた。小さな頃、お父様がしてくれたように。
「重たくない?」
「いいえ」
「落とす前に教えてね」
「決して落としたりはしません」
「本当?」
「ええ」
 キリルは、嘘を吐くのが下手だ。だから、私は安心した。キリルは、本当のことしか言わない。
 気がつけば、目の前に鐘が見えていた。外の景色は、すぐそこに迫っている。私は目を閉じた。
「どうぞ、お嬢様」
 キリルの声がする。風が頬を撫でて、髪をかき上げていく。私は目を開ける。
 白い壁が見える。その向こうが、目に映る。私は息を呑んだ。
 茶色い土だけが、どこまでも広がっている。荒野を風が砂を巻き上げて通り過ぎていく。寂しくて、恐ろしい景色が静かにあった。そのずっと向こうに、きらきらと光るものが見える。――水だ。水が、ずっとずっと先まで広がっている。
「……あなたの言うとおりね」
 頬を伝っていくものがあった。涙だ、と遠くで思った。
「土と水と風」
「はい」
 キリルが、小さく言う。ごめんなさい、という響きに似ている。私は彼の首筋にしがみつく。
「でも、綺麗だわ」
「ええ」
 瞬きの度に、涙が零れ落ちていく。いつぶりに泣いただろう。こんな風に心を震わせたのはいつだったろう。
「見てよかった」
 キリルは何も言わなかった。ずっと、私を抱えていてくれた。キリルの身体は温かかった。陽が沈むまで、私は世界を眺めていた。


 硬い音が響いた。キリルが床に倒れる。私は声も出せないで、立ち尽くしていた。キリルが顔を上げる。何か言おうとした顔に、鋭く鞭が振り下ろされた。キリルはまた床に伏せる。キリルの腕に、脚に、胴に、頭に、鞭は容赦なく降り注いだ。
「やめて――」
 私は叫んだ。縺れる脚で、私はキリルの前に立った。目の前では、お母様が鞭を振り上げていた。光を背にしたお母様の顔は、影に呑み込まれている。上手く息が吸えない。恐ろしくて恐ろしくて、泣き出してしまった。
「ちがうんです、お母様。キリルは悪くないの。私が、キリルに頼んだから。キリルは――」
「まだ三度残っていますよ」
 お母様の、凍った声を初めて聞いた。私はまた動けなくなる。お母様は私を置いて、キリルの前に立った。もう三度、鞭が撓った。キリルは、一度も声を上げなかった。人形だって、痛いはずなのに。お母様は、血の気の失せた顔で唇を震わせていた。キリルを、決して許さない瞳で見下ろしている。キリルは金色の瞳でお母様を見上げた。ボロボロになった顔で、呻いた。
「申し訳ありません、奥様」
「謝って何になるのです」
「申し訳ありません」
「煩い」
 また鞭が鳴った。
「外へ行ってはいけないと、あれだけ言い聞かせたのに」
「外へは――」
「お前が連れて行くのでしょう。許さない。決して。決して」
「お母様」
 私は喉が裂けるほど叫んだ。お母様の身体を抱き締める。
「ちがうの、私は、外を見たかっただけです。そこには行きません。私、外なんて行きません」
 お母様が、鞭を落とした。私は、腕に力を籠める。
「お母様を置いて、どこかに行ったりしません」
 お母様の身体が崩れ落ちる。泣き出したお母様を、私はずっと抱き締めていた。細い身体だった。私も泣いた。大好きな、お母様の匂いがした。
 キリルは横たわったまま、少しも動かなかった。


 キリルの身体は、私よりずっと大きい。肩を貸してあげたけれど、きっとキリルは歩きにくかっただろう。でも、私はキリルを引き摺っていった。きっとこのままにしておいたら、キリルは自分を大切にしないから。
 お父様の部屋に入ると、埃が舞った。小さく咳き込みながら、私はキリルの身体を壁に凭れかからせた。
「上手く直せなかったらどうしよう」
「大丈夫です」
「だって私、お父様の仕事を見たことがないの」
「直らなくても構いません」
「駄目よ。そんなの」
 私は腕や脚を拾い上げた。どれがキリルに合うのかは分からない。キリルはまた呻いた。息を吐いた途端に、眼窩から瞳が転げ落ちた。持ち上げると、金色に罅が入っていた。私は引き出しを開けて、金色の瞳を探した。
「直すの。キリルは、私が直すの。私のせいだもの」
「そんなことはありません」
「だって、そうでしょう」
「いいえ。私が、自分で上ろうとしたのです。外の景色を見るために」
「ほら、私のせいじゃない」
 私はキリルの前に跪いた。金色の瞳を、慎重に嵌めてあげる。キリルは目を瞬かせる。元の光を取り戻して美しくきらめく。
「キリル、痛い?」
「いいえ。痛くありません」
 キリルはやっぱり、嘘が下手だ。


 お母様が亡くなったのは、それからすぐだった。朝、アンナが食堂に駆け込んできて、お母様が動かないと悲しい声で叫んだ。お母様は、眠ったまま亡くなっていた。とても穏やかだった。優しいお顔に、私は安心して同じくらい悔しくなった。
 雛菊の下を掘ったのはキリルだった。元通りになった腕で、ざくり、ざくりとキリルは穴を掘った。私は薔薇の花を摘んだ。手に棘が刺さって血が滲んだ。ジーナは心配してくれたけれど、少しも痛くなかった。お母様の身体の上に、その薔薇を敷き詰めた。薔薇の匂いが噎せ返るようだった。色とりどりの薔薇は、キリルが手入れしたものだった。お母様が、キリルを許してくれたらいいと思った。
「キリル」
 お母様が(うず)められていく間、私は膝を抱えて泣いた。何も見えないけれど、キリルがそこにいるのは分かった。ずっと、音がしていたから。たくさんのことが頭を過った。でも、掴めたのはたった一つだった。
「私が死んだら、キリルが埋めてね」
 他の誰でもない、あなたが。
「……はい」
 キリルは、確かにそう言った。私は手を土の上に置いた。雛菊が風に揺らいで、指先を、腕を撫でていった。
 音が止んだ。土はかけ終えてしまった。私は顔を上げる。差し出されたキリルの手を取って立ち上がる。キリルの温かな手は、黒く汚れていた。私はそれに、また涙をこぼした。

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